竜宮城から帰ったら、急にお尋ね者扱いで懸賞金かけられてた的な
「はぁ..」
ヾ(*ΦωΦ)「どした?恋か?」
「違う違う、ただの人間関係でさ..」
ヾ(*ΦωΦ)「なんだ、じゃあな」
「おい、ちょっとまって、聞けや」
ヾ(*ΦωΦ)「知らん知らん、おもろない」
「最悪やな、このぶた猫は」
ヾ(*ΦωΦ)「ぶひひぃ、ぶひっ」
「だからさ、聞いてや。。」
ダメだ、ぶた猫も聞いてくれないので徒然と書くことにする。
「何も知らない人が簡単に他人を否定すること」を否定したい。
結局、何も知らないから簡単に疑い否定が生まれたりするんだけど。
その否定を聞く側としては、ほんとがっかりしてしまったりする。
まぁ、打たれ弱いと言えば、それまでだ。
例えるなら「ほら、竜宮城から帰ったら、急にお尋ね者扱いで懸賞金かけられてた」的な。
「村人全員で泥棒はたらいて、昨日居なくなったあいつが犯人」的な。
書いてみると、よくありそうな話だがいざ犯人扱いされた者は状況が呑み込めないものである。
つまり「居ない者に罪を着せることで、守られるものがある。責任逃れができる」原理なのだ。
「村のために必要な作物の種を求めて旅立った彼は、帰ったら罪人扱だった」
少し整理しよう、アドラー心理学では人間は「優越性の追求」を元来有しているものだとしている。向上心や、理想の状態を追及する気持ちだ。
これらを実現するために個人には「人生の課題」があって他人は介入してはいけないし、自分も介入してはいけないとしている。課題の分離というやつだ。
また、優越性を追求するために、他社の評価や承認に依存することを不自由、「自由になる勇気」がないと明確に否定している。
この理論にそうと、「他人に罪を着せる行為」というのは、「承認にとらわれた不自由な人間が、他人の課題に介入し邪魔をしている」ということになる。
まったくもって迷惑な話なのだ。
しかし、残念ながら残念な社会というものは存在しうるわけで、さらにそれらに関わらざるおえない時もあるのが人生なのだ。
だから落ち込まないためには、いろんな距離から角度からよく見ることが必要なのだな。