「一日」を「言い訳」のために使ってしまってはいないか

トラブった時は、目の前の事態に対する言い訳や、責任にばかり意識が行ってしまう。

つまり、過ごした時間を「一日」を「言い訳」のために使ってしまったことになる。

 

これは、他人や社会からの自己防衛に当たると思う。

足の引っ張り合いが行われる場所では自己防衛は大切だ。

が、しかしそれが人生の中心になってしまっては、結局は「支配されている」ということにならないだろうか。

 

環境に支配されるのが人間だが、それは物理的な環境であって。

環境に内面まで支配されるいわれはないはずだ。

 

雨の多い地域で、「ここは雨が多くて憂鬱だ」と一生言っているのは結局、動かない自分が前提にあって、その事へのいいわけである。

逆に言うと、その人はほかの場所に動くか、憂鬱にならない過ごし方を探すしかないのである。

 

それは「罪の意識」についても言えるはずで。

「罪を意識」することの目的は過去の失敗に執着し、いまなお何か弁解できないか探している事のように思える。または慰めてくれる誰かを待っている状態なのではないだろうか。

その状態はさながら「雨が多くて憂鬱だ」と家で怠けていることと、現在への貢献という意味では変わらない。自分を「罪人」にして甘える余地を探しているのである。

罪が過去に存在する以上、相手に罪を求める人も全く同じなのかもしれない。

 

要するに「罪」などというものに依存してはいけないのだ。

そして、これらに内面を支配されないためには、その人が自分のために何かをしなければならない。

 

とても簡単な理屈に思えるが、これがなかなか難しいのである。