ドラとアドラー心理学の「目的論」を考察

ヾ(*ΦωΦ)「今日のタイトル、目的論ってなに?目的の目的?それともxx目?」

「ん?ググれ野良」

ヾ(*ΦωΦ)/「んっ、野良っ...はぁ?このくそ飼い主が。お前先週末の秘密ばらすぞ。」

「んっ、ちょっと待って説明する」

 

とりあえずアドラー心理学の「嫌われる勇気」を開く。

どうやら目的論というのは、「目的に応じて現在の状態を選択している」と言う事らしい。これに対して現在は過去の経験やトラウマから派生していると考えるのが、フロイトの「原因論」だ。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「わかりづらい。つまり?」

「つまりお前の横柄な態度はわたしから主導権をとって説明を引き出すために選択した態度」という事だ。

ヾ(*ΦωΦ)/「あぁ、そういうこと」

 

そういうこと、、いや待って。ほんとに、そういうことだろうか?

近い気はするが、もう少し長い時間で考えてみよう。

「たとえば幼いころ、大人に騙された経験」から大人は嘘つきだと今も考え続けているとする。しかし、それはそう考える事がいまの本人にとって都合が良いというのが「目的論」の考え方だ。

自分の都合で相手のイメージや感情さえも人は捏造すると書かれている。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「深いが、思い当たるふしはあるな」

「うん、それで前に進みたければ目的論を理解して、原因論にとどまるなってのがアドラーの哲学のベースになっているような気がする。」

 

しかし多くの慰め本に書かれている原因論にそって説明をうけたところで、結局は「そういうものだから、みんなそうだから。もっと大変な状況はあるから」とおせっかいに諭されている気がする。

「これは1+1=2だからあきらめろと言われているようなものだな。」

目的論は2をもとめるのに勝手に1+1を捏造しているという考えだ。

2でいいのか?お前は本当2か?おいっ、というのがアドラー心理学のように思う。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「突然、算数とか出してちょっと気取って馬鹿っぽいけど。まあなんとなくわかったにゃ」

 

「くっ、野良が.」