アドラー心理学の「自由になる勇気」を考察する

「自由になる勇気」君は持っているか?

人は実は飛べるとか、食べなくても平気だとか、そういう話ではない。

人は飛べないし、食べなくてはならない。そこは自由ではない。

アドラーと言えば、対人。「対人関係に関する自由」についての考察だ。

 

前ふり長いな。

 

さて、前回に引き続きアドラー心理学の「嫌われる勇気」から考察を続けます。

今日は、「優越性の追及」と「自由になる勇気」について、です。

 

「向上心」や「理想の状態を求める」普遍的な人間の要求をアドラーは「優越性の追及」と呼び肯定しています、しかし同時に優越性を求めることの目的が、他人からの承認(評価)になってしまうことを問題視し否定しています。

この事は、あくまで「対人関係において」ですが「賞」に執着し、不自由になることを否定しています。

また、社会は全体的に成果や結果に対する賞罰を肯定しているように思いますが、「対人関係における賞罰」を肯定することは非常に危険なことだと言えるはずです。つまりそれは「権力のある者が無い者に対して一方的に賞と罰を与える権利」を持ち得るということだからです。

 そして人が承認欲求不満に陥るその原因を「賞罰教育にある」と述べています。

 

しかしながら、実際世の中は...

権力を持ちえないものは、持つ者から賞を得るために欺きさえも賢さと考えたりはしていないだろうか。もちろんすべてではないが目にする現実はあまりに「賞罰を意識した社会、対人関係」になっているように見えます。そしてそれがそのまま個人の価値判断にまで昇華してしまっている気がする。これは見間違えならありがたい。

 

見間違えでなければ、現代には恐ろしく不自由な社会が存在しています。

個人が「理想の状態」を追及することに、他人を介入させてはいけないし。

逆に介入してはいけないとアドラーは述べています。

 

つまりは、自分の優越性の追及に「他人の権力による賞罰など介入させるな」という話です。

そのために必要な勇気が、アドラーの考える「自由になる勇気」だと考えました。