星を結んで星座にしたのはそれがあまりに孤独だったからだ

「人はどこまでも孤独な存在かもしれないなぁ。」

ヾ(*ΦωΦ)「どした?クリスマス病か?」

「いやー、なんだか。考えや感情が整理されればされるほど、お互いはお互いで干渉のない距離で生きているということになる」

ヾ(*ΦωΦ)「それは寂しいな、まるで夜空のお星さまだな」

「いやー、そうなんだよね。お星さまも寂しいな。本質的に寂しくて弱々しいから集まって排他的な組織を作ったり、星を結んで星座とかにするんだろうな。」

ヾ(*ΦωΦ)「なんかお前いいこと言ってる気がするぞ」

「お、そっか。しかし体力も時間も限られた量があってさ、その条件の下一人で生きてるのが人間というか生き物なんじゃないかな」

ヾ(*ΦωΦ)「なるほどなー、お前が植物が好きな理由につながりそうだな」

「あー、そうかもしれない。植物はそれを体現している気がするな」

 

星を結んで星座

「一日」を「言い訳」のために使ってしまってはいないか

トラブった時は、目の前の事態に対する言い訳や、責任にばかり意識が行ってしまう。

つまり、過ごした時間を「一日」を「言い訳」のために使ってしまったことになる。

 

これは、他人や社会からの自己防衛に当たると思う。

足の引っ張り合いが行われる場所では自己防衛は大切だ。

が、しかしそれが人生の中心になってしまっては、結局は「支配されている」ということにならないだろうか。

 

環境に支配されるのが人間だが、それは物理的な環境であって。

環境に内面まで支配されるいわれはないはずだ。

 

雨の多い地域で、「ここは雨が多くて憂鬱だ」と一生言っているのは結局、動かない自分が前提にあって、その事へのいいわけである。

逆に言うと、その人はほかの場所に動くか、憂鬱にならない過ごし方を探すしかないのである。

 

それは「罪の意識」についても言えるはずで。

「罪を意識」することの目的は過去の失敗に執着し、いまなお何か弁解できないか探している事のように思える。または慰めてくれる誰かを待っている状態なのではないだろうか。

その状態はさながら「雨が多くて憂鬱だ」と家で怠けていることと、現在への貢献という意味では変わらない。自分を「罪人」にして甘える余地を探しているのである。

罪が過去に存在する以上、相手に罪を求める人も全く同じなのかもしれない。

 

要するに「罪」などというものに依存してはいけないのだ。

そして、これらに内面を支配されないためには、その人が自分のために何かをしなければならない。

 

とても簡単な理屈に思えるが、これがなかなか難しいのである。

 

 

竜宮城から帰ったら、急にお尋ね者扱いで懸賞金かけられてた的な

「はぁ..」

ヾ(*ΦωΦ)「どした?恋か?」

「違う違う、ただの人間関係でさ..」

ヾ(*ΦωΦ)「なんだ、じゃあな」

「おい、ちょっとまって、聞けや」

ヾ(*ΦωΦ)「知らん知らん、おもろない」

「最悪やな、このぶた猫は」

ヾ(*ΦωΦ)「ぶひひぃ、ぶひっ」

「だからさ、聞いてや。。」

 

ダメだ、ぶた猫も聞いてくれないので徒然と書くことにする。

 

「何も知らない人が簡単に他人を否定すること」を否定したい。

結局、何も知らないから簡単に疑い否定が生まれたりするんだけど。

その否定を聞く側としては、ほんとがっかりしてしまったりする。

まぁ、打たれ弱いと言えば、それまでだ。

 

例えるなら「ほら、竜宮城から帰ったら、急にお尋ね者扱いで懸賞金かけられてた」的な。

「村人全員で泥棒はたらいて、昨日居なくなったあいつが犯人」的な。

 

書いてみると、よくありそうな話だがいざ犯人扱いされた者は状況が呑み込めないものである。

つまり「居ない者に罪を着せることで、守られるものがある。責任逃れができる」原理なのだ。

「村のために必要な作物の種を求めて旅立った彼は、帰ったら罪人扱だった」

 

少し整理しよう、アドラー心理学では人間は「優越性の追求」を元来有しているものだとしている。向上心や、理想の状態を追及する気持ちだ。

これらを実現するために個人には「人生の課題」があって他人は介入してはいけないし、自分も介入してはいけないとしている。課題の分離というやつだ。

また、優越性を追求するために、他社の評価や承認に依存することを不自由、「自由になる勇気」がないと明確に否定している。

 

この理論にそうと、「他人に罪を着せる行為」というのは、「承認にとらわれた不自由な人間が、他人の課題に介入し邪魔をしている」ということになる。

まったくもって迷惑な話なのだ。

 

しかし、残念ながら残念な社会というものは存在しうるわけで、さらにそれらに関わらざるおえない時もあるのが人生なのだ。

 

だから落ち込まないためには、いろんな距離から角度からよく見ることが必要なのだな。

ドラとアドラー心理学の「目的論」を考察

ヾ(*ΦωΦ)「今日のタイトル、目的論ってなに?目的の目的?それともxx目?」

「ん?ググれ野良」

ヾ(*ΦωΦ)/「んっ、野良っ...はぁ?このくそ飼い主が。お前先週末の秘密ばらすぞ。」

「んっ、ちょっと待って説明する」

 

とりあえずアドラー心理学の「嫌われる勇気」を開く。

どうやら目的論というのは、「目的に応じて現在の状態を選択している」と言う事らしい。これに対して現在は過去の経験やトラウマから派生していると考えるのが、フロイトの「原因論」だ。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「わかりづらい。つまり?」

「つまりお前の横柄な態度はわたしから主導権をとって説明を引き出すために選択した態度」という事だ。

ヾ(*ΦωΦ)/「あぁ、そういうこと」

 

そういうこと、、いや待って。ほんとに、そういうことだろうか?

近い気はするが、もう少し長い時間で考えてみよう。

「たとえば幼いころ、大人に騙された経験」から大人は嘘つきだと今も考え続けているとする。しかし、それはそう考える事がいまの本人にとって都合が良いというのが「目的論」の考え方だ。

自分の都合で相手のイメージや感情さえも人は捏造すると書かれている。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「深いが、思い当たるふしはあるな」

「うん、それで前に進みたければ目的論を理解して、原因論にとどまるなってのがアドラーの哲学のベースになっているような気がする。」

 

しかし多くの慰め本に書かれている原因論にそって説明をうけたところで、結局は「そういうものだから、みんなそうだから。もっと大変な状況はあるから」とおせっかいに諭されている気がする。

「これは1+1=2だからあきらめろと言われているようなものだな。」

目的論は2をもとめるのに勝手に1+1を捏造しているという考えだ。

2でいいのか?お前は本当2か?おいっ、というのがアドラー心理学のように思う。

 

ヾ(*ΦωΦ)/「突然、算数とか出してちょっと気取って馬鹿っぽいけど。まあなんとなくわかったにゃ」

 

「くっ、野良が.」

アドラー心理学の「自由になる勇気」を考察する

「自由になる勇気」君は持っているか?

人は実は飛べるとか、食べなくても平気だとか、そういう話ではない。

人は飛べないし、食べなくてはならない。そこは自由ではない。

アドラーと言えば、対人。「対人関係に関する自由」についての考察だ。

 

前ふり長いな。

 

さて、前回に引き続きアドラー心理学の「嫌われる勇気」から考察を続けます。

今日は、「優越性の追及」と「自由になる勇気」について、です。

 

「向上心」や「理想の状態を求める」普遍的な人間の要求をアドラーは「優越性の追及」と呼び肯定しています、しかし同時に優越性を求めることの目的が、他人からの承認(評価)になってしまうことを問題視し否定しています。

この事は、あくまで「対人関係において」ですが「賞」に執着し、不自由になることを否定しています。

また、社会は全体的に成果や結果に対する賞罰を肯定しているように思いますが、「対人関係における賞罰」を肯定することは非常に危険なことだと言えるはずです。つまりそれは「権力のある者が無い者に対して一方的に賞と罰を与える権利」を持ち得るということだからです。

 そして人が承認欲求不満に陥るその原因を「賞罰教育にある」と述べています。

 

しかしながら、実際世の中は...

権力を持ちえないものは、持つ者から賞を得るために欺きさえも賢さと考えたりはしていないだろうか。もちろんすべてではないが目にする現実はあまりに「賞罰を意識した社会、対人関係」になっているように見えます。そしてそれがそのまま個人の価値判断にまで昇華してしまっている気がする。これは見間違えならありがたい。

 

見間違えでなければ、現代には恐ろしく不自由な社会が存在しています。

個人が「理想の状態」を追及することに、他人を介入させてはいけないし。

逆に介入してはいけないとアドラーは述べています。

 

つまりは、自分の優越性の追及に「他人の権力による賞罰など介入させるな」という話です。

そのために必要な勇気が、アドラーの考える「自由になる勇気」だと考えました。

 

アドラー心理学の「人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません」を考察

アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読み返しています。

 

実はもう読み返すのは三度目か四度目になりますが、いまだに内容をかみ砕いて理解出来ていない。いや、理解できていないというよりは考え方を実践するのは型を体得するようなもので難しい。

そして同時に自分の状況と照らし合わせ納得する必要もあってなかなか進まないのです。本の中で哲人と青年が議論しあったように、自分に問いかけながらこつこつ考える必要があります。

 

で、せっかくなので、自分にどう問いかけて行くのか書いてみようかなと思いまして。

まずは、以下の哲人一節について

人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。

過去にどんなことがあったかなど「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど、「いま、ここ」で考える問題ではない。

 人生は点と点の結びつきだと、かのスティーブ・ジョブズも言っていましたが、

わたし自身も振り返ると心当たる部分があります。わたしは過去に音楽の道を進んだ経験がありましたが、いまは全く別のことを生業にしています。しかし何屋かといわれると、かなり曖昧な状況にあります。

そして以前は、「自分はこうでなければならない」という強い執着がありました。その時から比べて考えてみるといまの自分の状況や気持ちの持ちようは説明するのがとても難しいくらい変化しています。

 

事実として言えるのは「ただその時々に行動と選択があった。」です。

その行動と選択には過去の経験やその時点での状況は少なからず影響しましたが、結局は「アドラーの言葉のいう理想の状態を追及すること」が動機となっていました。

つまりその時々で「優越性の追及」を行ってきたと言う事になります。

いまの状況がひとつのストーリーに沿って説明できないと言う事は理想の状況はその時々で変わってしまっていたと言う事だと思います。

 

そう考えると人生が少しシンプルに思えて、今を大切にしようと思えるのでした。

実はわたしもあなたもすでに大きな船を持っていて、ただ「航海に出ることを恐れている」のかもしれません。

わたしの困ったときの「お助け本」について

悩んだとき皆さんはどうしていますか?

私は鬱々とした気持ちでKindleの中の本たちに助けを求めます。

「もうダメだ..いでよPaparWhite、わたしを導きたまへ」という具合です。

 

そして、中でも長いあいだ助けになってくれている本は過去世界的ベストスラーになった、スティーブン・R. コヴィー博士の「七つの習慣」と近年ベストセラーのアドラー心理学を解説した「嫌われる勇気」です。また、最近は知識の補完とより深い理解のためにアダム・スミスデール・カーネギーも読んだりしています。

 

いずれの本も人間はどのように考え、主体的に行動すべきかの原則がつづられています。究極的に人を客観視した本ともいえるはずです。

 

しかし、そもそもなぜ悩んでいるのかというと、自分の進行方向の未来について考えたとき、道はあまりに複雑で時には猛烈な嵐や、長く続く向かい風が潜んでいる事を予感するからです。つまり悩みや不安はより確実で安全な航海図を自分が催促していることだと思います。で、その航海図の核となるのが「周囲との協力、関係性」になります。

周囲の協力がなく、関係性に悩んだままでは、航海は危険だと自分自身が訴えているのです。

 

そして、よりよい関係性を築くヒントを先ほどあげた二つの本は教えてくれます。

あくまで他人の力ではなく「自分がどうあるべきか」について説明されており、それで十分であることも教えてくれます。

嵐に会ってもあきらめる必要はなく、そこから距離をとる方法。

回避する可能性についても教えてくれます。

 

そうやって悩みと共に少しでも安全で確実な航海を明日も続けてゆくのです。